©Kaz Nagatsuka
“The King”と呼ばれてきた威風堂々の38歳の大ベテランが「息子」の顔になった。
「ずっと父と母に自分を誇りに感じてもらえるようにと思ってきました。父や母、妻が僕のことを誇りに思うと言ってもらい、感無量です」
28日の試合後、コート上で行われた引退セレモニーで感情的な表情と口調を隠せないファジーカスは、そのように話した。
今シーズン限りで現役選手生活を終える川崎ブレイブサンダースのニック・ファジーカスが4月27-28日のサンロッカーズ渋谷との連戦で、ホームでの最後プレーを終えた。
この2試合。川崎のベンチ後方にはファジーカスの家族や親類、知人一族の姿があった。その数、約15名。アメリカからファジーカスの最後の勇姿を見届けに来たのだ。横浜文化体育館で行われるレギュラーシーズン最終節、対横浜ビー・コルセアーズとの2戦にも訪れるという。
27日の試合前には米オクラホマ州から訪れた父親のジョー・ファジーカスさんから、そして28日には同コロラド州から来た母親のキム・ファジーカスさんに、自身の息子がコートを去ることについて話を聞いた。
ジョー・ファジーカスさん
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――シーズン前にニック選手が引退を表明したことはわれわれを驚かせました。ジョーさんにとってはいかがだったのですか?
ジョーさん 悲しいことではありますね。ですがその日はいつかやってくるものです。それにニックの体はもうかなり疲弊してしまっています。彼の足(右足首)のことについてはご存知でしょうが、時に歩くのさえつらいのです。
ですから、その日はようやくやってきたというところでもあります。もう十分やりましたしね。
――彼の引退のことはいつ知ったのですか?
ジョーさん たしか1年前ほどに言ってきたと思います。もっとも、それ以前にも引退を考えているとは言っていたのですが、その時は現役を続行したんですよね。ですが今回は「もうこれが最後だ」と話してきたのです。以前は「引退を考えているけど、でもまだ続けようかな」などと言っていたこともありますが、もう今回、それはないですね。
――ニック選手がジョーさんに引退の旨を伝えてきた時のジョーさんの反応はどのようなものでしたか?
ジョーさん 私が言ったのは「もうそろそろだと思っていたよ」ということ。もうずっと彼のプレーを見てきましたし。ただ残念なのが、日本でのプレーをそれほど多く見る機会がなかったことですね。でも、彼には楽しませてもらいました。
――ニック選手は日本以前にはヨーロッパやフィリピンのチームにも所属していますが、日本でこれほど長くプレーをするとは想像できましたか?
ジョーさん 本当、12年もいたのですものね。彼も日本にいることをとても楽しんでいると、他のどの場所よりも良いところだったと言っていました。彼にとってはすべてがうまく働いたところだったのですね。
――ニック選手はリーグ優勝もしていますし、リーグMVPや得点王など個人賞も数々獲得してきました。彼の日本での長いキャリアでのハイライトは何だと考えますか?
ジョーさん 優勝は何度かしていますよね。ニックは個人賞よりもチームとして優勝することを喜ぶ選手ですよ。ディフェンスは最高だとは言えませんが、スコアラーとしてはすばらしく、彼よりも優れた選手はほとんどいません。
――2018年にニック選手は日本への帰化をしました。その決断についてはどのように感じましたか?
ジョーさん 彼が日本人になることで外国籍選手が事実上もう1人コートに立てるようになってチームの質が上がったわけですから、私としても良いことだと思いましたよ。
――引退後のニック選手が何をするのか、ご存知ですか?
ジョーさん とりあえずはたくさんゴルフをするんだと言っていましたよ(笑)。実際、彼はゴルフも上手なんです。もしかしたらですが、ゴルフで暮らしていけるかもしれませんよ。
キム・ファジーカスさん
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――今回はニック選手のとどろきアリーナでの最後の試合となります。
キムさん 悲しいですし、ニックにとっても悲しいことだと思います。自分の息子がもうバスケットボールをプレーすることがないというのはつらいことです。ですが、ここまで受けてきた声援をニックも感謝していますし、日本という国を恋しがることになると思います。それくらいニックは日本が好きでした。
――ニック選手の日本での試合を観に、何度ほど訪れられたのですか?
キムさん 今回が2度目です。1度目は孫が産まれた時でした。本当は孫娘を連れて日本を訪れたかったのですが、その時は足を悪くして実現しませんでした。でもそうでなければ日本は美しい国ですからもっと来たかったです。ニックも、この上ない場所を選びました。
――日本でバスケットボールは急速に人気が出てきましたが、ニック選手が来日した当初はこことどろきでも客席がガラガラという時代でした。
キムさん 本当にそうなんですよね。これだけの成長は、私が来た6年前と比べても目を見張るものがあります。そして今日も、これだけの人たちが私の息子のためにかけつけてくれたというのに感謝したいです。背番号「22」のジャージーを身に着けてくれている人がたくさんいるのを見るのは、特別なことです。
――アメリカ生まれの選手をこのように送り出すというのは、確かになかなかあることではありません。
キムさん とてつもなく大きな名誉です。ニックにとてももちろんそうです。
――少年期のニック選手はどういう子どもでしたか?
キムさん ニックはすごく良い子でしたよ。バスケットボールは4歳の頃からやっていますが、実は産まれた当初は大きな赤ん坊ではなかったのです。ただ生後3か月頃から体重が倍になって、そこからぐんぐんと成長しました。以来、同じ年の子どもたちと比べていつも背は高かったですよ。
ニックはアメリカンフットボールもやりたがっていたのですが、バスケットボールの人たちはニックにケガをしてもらいたくないということで断念せざるをえなかったのです。それは複数のスポーツをやりたがっていたニックにとって残念なことでしたが、バスケットボールはニックに一番向いているスポーツとなりましたし、最終的には良かったのではないかと思っています。
――ニック選手から引退を伝えられたのはいつだったのですか?
キム ニックが言ってきたのは……シーズンの最初の頃でしたね。引退するかどうか迷っていたようではありましたが、引退の決心をしてチームに伝え、そして私にも言ってきてくれました。
――昨日(27日)の試合の際、ニック選手がビッグプレーを決めた時などはキムさんも両手を挙げて叫びながら応援していましたね。
キムさん 私の息子ですからね。それにアメリカでの応援は日本とはかなり違っていて、私のように応援するのはまったく変ではないんですよ。私の横に座っていた孫(ファジーカスの息子)も私たちに声を張り上げて、父親を応援してほしがっていましたしね。
ニックは私の息子でもあって、目の前でプレーする姿に感情を押し止めることなどできませんでした。
――数年前にニック選手は日本へ帰化をしましたが、その際はどのように感じられましたか?
キムさん すばらしいことだと思いました。ニックが日本のパスポートを取得する過程は大変でしたし、そのために努力をしていました。私が前に日本へ来た時も 、台所には日本の文字が貼ってあったりして、彼が日本語を懸命に学んでいたことがうかがえました。
――ニック選手が帰化をする前、日本の代表チームは苦戦続きでしたが、彼が加わったことで生まれ変わり、物事が好転していきました。
キムさん ワールドカップにも行きましたしね。日本が暗いトンネルから抜け出るのに役立ちましたし、ニック自身も代表でのプレーを楽しんでいたようです。
この盛り上がりも、長く続いていくといいですね。バスケットボールは本当にすばらしいスポーツですから。